嚴正寺水止舞縁起 昭和三十二年十一月 嚴正寺第二十二世住職 北条祐允

水止舞縁起によると、「水止舞は今から六百八十年ほど前、後醍醐天皇の頃の住職・第二世法密上人がおこなった長雨止めの祈祷に由来する」と、伝えられています。

上人は高野山で真言密教を学んだ高僧。元亨元年、武蔵の国が大旱魃に見舞われた際には、稲荷明神の像を彫り社を建て、藁にて龍神のかたちをつくり、七日の間祈祷し、見事に雨を降らせました。

しかし、二年後の元亨三年に今度は、数十日間雨降り止むことなく田畑はことごとく海となり、人々は難儀して他国に逃げる物も数多くあり、長雨は法密上人が雨乞い祈祷をしたせいだと恨む農民まで出てきた。そこで上人は、三頭の龍像を彫って「水止」を命名。それを農民たちにかぶらせて舞を舞わせ、太鼓を叩かせ、法螺貝を吹かせたところ、黒雲は消えて太陽が姿を現したという。喜んだ人々により「寺に水止の舞を奉納する慣わしとなり、その後天変地異の度に水止舞を奉納し、霊験をあらたかにした」と、されています。

嚴正寺は、多摩川のデルタ地帯。地面を三十センチメートル以上掘ると、今でも泥水が滲み出てくるような土地柄であり、昔から水はけが悪く、水害に悩まされており、雨乞いはともかく、雨止めの祈祷はしばしば行われておりました。

だが、第六世の住職の代からは、天台宗から、宗祖親鸞聖人が「ただ念仏するだけで、誰でも往生できる」と説いた浄土真宗に宗旨替えしたため、一切祈祷は行われなくなりました

嚴正寺の住職と檀家は、鎌倉幕府の第六代執権職にあった北条長時の一番下の弟、時千代が厳正寺を開基した法円上人であり、檀家は長時の一族郎党でありました。

そして、第二世法密上人は、長時の父・重時の弟筋に当たります。一族郎党で流れてきたからか、住職と檀家の関係は密接であり、宗旨を変えたのも、檀家である在家信者の行く末を案じての事。それまでは、特権階級貴族の為の宗教であることが多かったのに対し、浄土真宗は広く門戸を開き一般の人たちを含め誰でもが救われる宗教であったからとされています。

以来、妻帯できるようになった住職の子孫が、代々お寺を継ぎ、大森の住民たちの安心を願ってきました。

水止舞が六百八十年もの長い間、廃れずに伝承されてきたのは、お寺と檀家の関係が密接であった事で、近隣住民たちの「感謝の心、喜びの心」が大きかったと思われます。